「こころの時代~宗教・人生~ 生き延びるための物語 哲学研究者・小松原織香」(中村宝子記者、2023年)

なんというか。こころの時代のBGMがあれば一定のフォーマットが出来上がる。よくできた感情装置になっていてそれだけで感動する準備が整う。ひとりの人の内面的なタッチーな話を引き出すことができれば一つの番組として成立する。しかし研究者でありエッセイ執筆者であり被害者である小松原は、統一的な物語を語ることの違和感ばかりを口にする。インタビューアーは戸惑う。これで一つの番組になるのだろうか、三回目のインタビーでは聞きたいことを聞き出せない焦りが編集点の合間から見え、その綻びが微妙な生感になっている。小松原的なものは、現代思想の一つの態度の継承であり、「被害者」という立場を前にしたものでもある。一つの永遠な独白であり現代的な語りそのものに見える。学問は一体なんの役割を果たしているのだろうか。それがひとりの人間に一つのストーリーに回収されない、自分の言葉で考え、書くという力を与えた、ということで良いのだろうか。ある種伝統的な弱きものが言葉を獲得していくという成功譚なのだろうか。おそらくベルギーで東京にはない開放的な住宅に住み、スペインでの国際学会での発表にむかう彼女をおうカメラの念頭には、そういうものがある。(自分なりに研究者の生活がそんなものではないことは知っているつもりではある。)なんというか、批判はハードな形で自分の立場を問い直す作業が済んでなければ許されないような気もする。そういう気にさせるような一つの学問とはなんなのろうかという気もする。批判、というか違和感に近いものは終始感じる。一体、一体...。にしてもベルギー(とスペイン)に何人出張させたのだろう。お金あるな。